はじめまして。
当ブログにご来訪くださいまして、ありがとうございます。
ここでは私の自己紹介をさせてくださいね。
父が商人
私が子どもの頃、父は骨董店を営んでいました。
小ぢんまりとした貸店舗を賃借し、個人事業主として、母と助け合って経営していました。骨董店ではありますが、古美術品の他にも、日常生活で使える一般家庭用の食器なども販売していました。そして父は「行商」と称し、民間企業にアポを取り、そのお昼休みに企業を訪問して敷地を借り食器などを広げ、従業員の方に販売するということも行っていました。
「おう、行商に行くぞ」
父のこの一言は、保育園児だった私が父の「行商」に伴う合図でした。私はこの「行商」で、お皿を並べるのを手伝ったり、保育園児なりにお金の計算などもしたりしました。私でもできそうなごく簡単な計算を父は私にさせてくれて、正解すると嬉しそうに褒めてくれました。私に花を持たせてくれる、父のこの優しさが好きでした。そしてそこの従業員のお客さんに、「ボク、お父さんのお手伝いができて偉いね」とチョコレートを渡されると、これがまた嬉しく、心が温かくなる瞬間でした。
「行商」の帰りには、父とパチンコ店に寄るのが通例でした。当時は子連れでのホールへの入店が黙認されていました。父の膝の上に座り、パチンコというゲームを観戦するのが、私は楽しくて仕方がありませんでした。パチンコの概念を、この頃には私は大まかには理解していました。
工場というあだ名
大学卒業後、東京近郊で一人暮らしをしていた私は、長野の実家には帰らず、都内のIT関連企業に就職しました。
私はプログラマというポジションでした。プログラマとは言っても、特に配属当初は仕様書を作成することもなく、上流のSEから流れてくる指示に従ってプログラムを書くだけの仕事だったので、コーダーと言うのが適切だったと思います。
配属先では、私のあだ名は私の苗字の後ろに「工場」を付け、「〇〇工場」というものでした。その心は「仕様書を放り込めばいくらでも機械のようにプログラムを吐き出してくれる」といったところでしょう。当時の私はこのあだ名を好意的に誉め言葉として受け取っていましたが、やはり違和感は拭い切れず、結局のところあまり人間として扱ってもらえていなかったように感じます。
「工場」の称号が付いていてもそこまで優れた性能を湛えているわけでもなく、言うほどの処理能力はありませんでした。仕事が産生されるスピードの方が圧倒的に早いため、私には常に大量の仕事の待ち行列ができていました。
朝は8時には出社し、夜は終電間際に退社する日々でした。残業代は殆ど付きませんでした。心も身体もすっかり追い詰められ、私は自死をも考えるようになっていました。そして長野の両親に、すがり付くように「今、とてもつらい」と打ち明けました。
「甘えるな」と叱責されることを覚悟していましたが、両親の意見は揃って「そんな会社は辞めて家に帰ってこい」というものでした。そして私は両親に促され、精神科の門を叩くことになりました。
精神科では統合失調症の診断を受けました。そして診断書を持って会社に報告し、辞める方向で話は進み、就職から3年ほどが経ったところで、正式に離職しました。
東京のマンションを引き払った私は実家へ帰り、療養することになりました。「俺はまた、息子と一緒に暮らしてえな」、「もう頑張らなくていいよ」。両親のくれた優しさで溢れた言葉が、私の心を救い上げてくれました。この時ほど両親の気持ちが嬉しかったことはありません。私は、久しぶりに、本当に久しぶりに、涙を流して、声を上げて泣きました。
生きているというよりは死んでいないだけ
私の病状は、障害年金2級を受給できるほどには、程度の重いものでした。
両親の愛情は温かく、とてもありがたいものでした。しかしそれは私には心地の良いぬるま湯であり、私の不甲斐なさゆえに、そのぬるま湯に甘えてしまいました。ぬるま湯の中ではやる気は上がらず、向上心もなく、自立は妨げられ、毎日を無為に過ごしてしまいました。
「気分転換」を口実にして、パチンコ店に入り浸る日々でした。当時の私は、ただ苦痛を忘れることができて、時間が過ぎ去ってくれればそれで良いと思っていました。開店時間から閉店時間まで、連日連夜、ゾンビのようにパチンコを打ち、自宅とパチンコ店を往復しました。
幸いなことに当時のパチンコ業界は、打ち手にとって良い状況でした。今現在は規制が厳しく、イベントの開催なども制限されていますが、当時は無法地帯とも言えるくらい過激な営業が可能でした。
信頼できるホールの強いイベントならば、座れさえすれば客側が勝つ確率の方が高いくらいの日も、当たり前のようにありました。つまり、赤字営業の日がゴロゴロとあったのです。
ある日の夜、パチンコを打ち終えて景品交換をしようと交換所に向かったら、ホールの出入り口に行列ができているのが目に入りました。何だろうと並んでいる人々に視線をやると、彼らは寝袋や椅子、飲食物に雑誌や漫画などを用意していて、徹夜をする気が満々のように見えます。徹夜…そう、つまり彼らは翌日のイベントの開店待ちのために、その前日の閉店時間の前からすでに並んでいたのです。徹夜して開店待ちをしても、それに見合う価値があるくらい、強いイベントには魅力がありました。そういう時代でした。
さすがに私はそこまではできませんでしたが、イベントはよく利用していました。パチスロの強い日にはパチスロを打ち、パチスロにあぶれた場合にはパチンコの甘釘狙いで、糊口を凌いでいました。
正確な記録はもう残っていませんが、病気療養中の大まかな稼働実績なら分かります。稼働日数は4桁日に及び、稼働時間に換算すると軽々と5桁時間に達し、その結果手元には4桁万円の現金が積み上がっていました。
ゾンビだった頃に作ったパチンコ財産を、現在では株式などのインデックス投信で運用しつつ、生活資金の基盤として活用しています。
両親の看取り
ゾンビ生活は10年ほど続きました。
パチンコも趣味と言うよりはただのゾンビ活であり、その他に楽しみも特に無く、ゲームをやっても、漫画を読んでも、お酒を飲んでも、楽しいとは思えませんでした。かつて楽しいと思えていたことを、楽しいと思ってやることができませんでした。
私はこのまま朽ちていくだけの人生なのかな…多分そうなんだろうな…。自分の将来について疑問と確信の境界を交らうようになった頃、父が病に倒れ、亡くなりました。肝臓がんでした。
私には深い深い衝撃が走りました。しかし、父がいなくなったのだから、これからは私がしっかりしなければならない。実力が伴わない形だけのものではありますが、そういった使命感のようなものが芽生え、葬儀では私が喪主を務め、死後事務の手続きも分からないなりに自分で調べて、こなしました。
父が亡くなったのは、私が苦労をかけてしまったのも大きいだろう。そういう罪悪感がありました。だから、せめて母のことは、これからは大事にしよう。母と親子2人で、母を助けながら暮らしていこう。そんな決意が固くなりかけてきた、父の四十九日の頃、今度は母が病気で亡くなりました。全身性エリテマトーデスという、免疫に関する難病がみるみる悪化してのことでした。
私の心は打ちのめされました。父の死による傷が少しずつ修復されつつあったところに、母の死による振盪が加わり、完全決壊とも言えるくらい、精神的なダメージは甚大でした。
ダメージが大きかったのは、二人の今際に立ち会ったことにも由来します。
父は肝臓がんの症状の腹水でお腹が膨らみ、栄養が取れないことでやせ細った姿で亡くなりました。筋骨隆々で逞しく、頼もしかった父の相貌は、もはや見る影もありませんでした。
母は免疫が機能しなくなったことにより、全身がカビだらけの状態で衰弱していき、心肺はだんだんと弱まり、やがて静かに息を引き取りました。いつも綺麗でいたいと身だしなみにも気を遣っていた、私の知っている母の面影は、そこにはありませんでした。
二人の最期は、見届けようとして、強い気持ちでそうしようとして、確固たる意志を保っていなければ、目を逸らしてしまいそうになるような、私にはつらい姿でした。しかし私にはどうしても、二人の死に目に逢っていたい念いがありました。
当時の私の精神的苦痛を増幅させることになったのだとしても、二人の最期に立ち会うことができたのは、私にとって良かったことだと、今では思っています。
再起を誓う
ぬるま湯からの強制退場によって、私が目が覚めました。
自分の人生なのだから、自分の人生は自分が豊かさを感じる生き方をしたい、と思いました。障害年金を頂きながらパチンコ財産と併用すれば、別に無理をしなくても、食べるには困らない人生は送れるだろうという消極的な考えも、正直なところありました。しかしそれで自分の人生が終わってしまうのは、あまりにもつまらなく、寂しいと思いました。
豊かに生きる手段として、私は資格の勉強をすることにしました。私は学ぶことそのものが好きですし、試験に合格して資格を取れれば、あわよくば将来それでお仕事が頂けるかもしれません。そう考えれば、資格の勉強は私にとって大変都合の良いものでした。そうして私は、FP3級の勉強から始めました。
勉強をするには、豊かに生きるには、現実問題として、体力も必要です。パチンコを打つだけの生活を長い間続けていた私には、まず体力がありませんでした。ですから、身体をつくるために、勉強と並行して筋トレも始めました。
現在は資格の勉強を始めてから4年が経ちます。その4年間の勉強で、CFP、FP1級、社会保険労務士、行政書士の資格試験に合格できました。一般的には「難しい資格」と評価して頂けることも多い、これらの資格を取得できて、私の自己肯定感やモチベーションは飛躍的に向上しました。
体力が無く貧相な体つきをしていた私は、筋トレで25kgのベンチプレスから始めました。そして4年の筋トレを経て、現在では50kgを超える重量が挙がるようになりました。鏡を見れば自分の体型が変わったのは分かりますし、周りからも「逞しくなったね!」と言って頂けるようになりました。
勉強と筋トレで、小さな成功体験を何度も何度も重ねて、それは大きな自信へと成長を遂げたようです。やってできるようになり、できるようになればモチベーションが上がり、それがまた新たな挑戦に繋がる、という良いサイクルが生まれました。
身なりにも気を遣うようになり、眼鏡を外し、それまで付けるという観念すら無かった化粧水も、付けるようになりました。人間関係も変わり、人が、私を人として見てくれるようになりました。俄かには信じられませんが、どんよりとくすみ切っていた私の世界が、彩りを取り戻したように感じています。
精神的にも肉体的にも充実しつつある今なら、もしかしたら、もしかしたら司法書士にさえ挑戦できるかもしれない。その考えに至り、現在は司法書士試験へ向けて勉強をしています。
自分の人生を豊かにするために、自分の未来へ臨み、必ず司法書士試験に合格してやるんだと、勢いに乗って気炎を揚げています。
(2024.2.1)