こんにちは、あんにゅいです。
私は統合失調症という精神疾患を抱えています。
自分の病気のつらさについて他人に話すことは私は普段はありません。
そのつらさは健康な人にはなかなか理解してもらえないから、というのが話さない理由のひとつです。
ですがふと思い及んだので、私は統合失調症のどういった症状で苦しいのか、綴ってみたいと思います。
つらいのはこういう状態
何がつらいのかを一言で簡潔に言うと、「やる気が出ない」ということになります。
しかしそれでは多分に説明不足で、誤解を招きかねない表現だと思います。
少し掘り下げてみます。
私は、やる気で満ち溢れているわけではありませんが、やる気そのものは皆無ではなくそれなりにあります。
「何もせずに過ごす毎日なんてダメだ、やるべきことはちゃんとやらないと。」という考えです。
しかし、例え些細なことであっても、何か行動を起こすことに膨大なエネルギーが必要になってしまうのです。
ゴミ出しを例に挙げます。
ゴミをひとつにまとめ、指定ゴミ袋に詰め込み、中身が出ないようにきつく縛り上げ、靴を履いて玄関の扉を開け、ゴミ捨て場に持って行く。
かつては私も病気ではありませんでしたから、健康な人からするとこれが簡単な仕事であることはわかります。
ですが健康な人にとっては簡単な仕事でも、現在の私からするとまるで一大プロジェクトを始動させるかのような覚悟が必要となります。
「ゴミ出しくらいで、そんな大げさな」とお思いでしょうか?
でも、本当のことです。
たかがゴミ出しでも、全身全霊を以って臨まねばならないのです。
そして、渾身の力を発揮したわけですから、使命を終えた後はくたくたに疲れ、ベッドに沈み込み深く深く眠ります。
それはもう、泥のように眠ります。
こんな様子では体力も気力も消耗が激しく、時間も制約されるので、最低限の家事をこなす程度が精いっぱいで社会に出て仕事をするなど夢のまた夢の話です。
何をするにも相当な覚悟とエネルギーが必要で、それゆえにまともな社会生活を営めないという事実が、統合失調症を抱える私を取り巻きます。
それが私を苦しめるのです。
希死念慮
健康な人に質問してみたいことがあります。
私を含め精神病患者の中には希死念慮(きしねんりょ:自ら命を絶ちたいと思う気持ち)を抱く人がいます。
では、そういった人たちは、どういう理由で希死念慮を抱くと思いますか?
「えーと、精神疾患ということは・・・気持ちが暗く沈んだり、悲しくなったり、楽しみや喜びを感じることができなくなったりして、つらいから?」
そのようなイメージを持っている方が大半ではないでしょうか。
それもあながち間違いではないと思いますが、私の場合は少し違います。
私が希死念慮を抱くのは次のようなプロセスを辿ります。
些細な行動を起こすだけでいちいちエネルギーが枯渇する。
なので行動を起こすことが億劫になる。
しかしすべきことは待ったなしで溜まっていく。
なのでやらないわけにはいかない。
しかしそれをこなすと疲労困憊になる。
決死の覚悟でこなすが、疲労が回復する頃にはやるべきことがまた山積みになっている。
やらないわけにはいかない。
それをこなすとまた疲労困憊に。
・・・の繰り返しで、その無限ループの現実から逃避したくなる。
「こんな些細なことでこんなに疲れるなんて」と自分が情けなくもなる。
そして社会に適応できないことに絶望を覚える。
希死念慮を抱く。
という道筋です。
これについては、健康な人の中にも共感してくれる人がいそうな気はします。
それは陰性症状
統合失調症の症状は、一般的に4つの段階で現れます。
- 前兆期
- 急性期(陽性症状)
- 休息期(陰性症状)
- 回復期
2の陽性症状というのは、幻覚や妄想など、あるはずのないものがある状態のことです。
3の陰性症状というのは、感情の起伏が無くなる、意欲の減退など、なくてはならないものが無い状態のことです。
これに鑑みると、医師から明言されたわけではないのですが、私は現状3の休息期に当てはまるのかな、と思います。
「簡単な仕事ができない」というのは、「なくてはならないものが無い状態」だと考えました。
寛解めざして
以上、統合失調症の私の場合のつらさについて書いてみました。
それなりに苦しさのある毎日ですが、それでも生きていける理由のひとつに、「徐々に良くなっているはず」「いつかは完治するはず」といった希望があります。
医学の力を信じて、寛解めざして腐らず治療を続けていきたいと思います。